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2021.08.18 / 日々のこと

ちゃんとある。

このところ、ずっと雨が降っている。

上流で、かつ川からは離れているから建物が浸かってしまう心配はあまりないけれど、なにせ四方を山々に囲まれた村である。家にいても、運転していても、どこか落ち着かない。

洪水や土砂崩れの危険性のために、山を下りる道が通行止めになっていると聞いたので、もともと茶道のお稽古のために市内に向かう予定だったのを断念し、大人しく村内に留まることにした。

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事務所からすぐ近くのところにある、かめばあちゃんの家。ずっと行きたかったので、この機会にと、晩ごはんを食べにおじゃまさせてもらうことにした。

17時ごろに行きますと言っておきながら、着いたのは17時半ごろ。待ちくたびれたよと言って、オードブルのようにたくさんの揚げ物が乗った大皿と一緒に迎えてくれた。

何もないねと繰り返し言いながら、お漬物や佃煮から、煮物やおやつまで、いろんなものを出してくださる。わたしのおばあちゃんもいつもそう。それがいいの、と心の中で思う。きなこもちが食卓にのっているのを見て、さっそく心が踊る。保育園のおやつに出てきていた「きしめんあべかわ」というおやつが大好きだったことを思い出す(最近になって、大分名物の「やせうま」という料理がよく似ていることを知る。)。食べると、懐かしさと相まって、優しい甘みが身に沁みていく。

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中には、ちょっと変わった食べ物もあった。ごはんを揚げているように見える揚げ物のおかず。聞いてみると、コロッケなど他の揚げ物を作ったときに余った衣の溶き卵がもったいないからと、味をつけて、ごはんに絡めて揚げたのだという。これが意外とクセになる。それから、練り物のように見えた何かしらの揚げ物。聞いてみると、それは市販のスティックパンを揚げた揚げパンだという。おばあちゃんは、「今回はチョコ入りのしかなくて、これは焦げやすいのよね、いつもは普通のタイプを揚げるのだけれど」とぼやいていらっしゃった。

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わたしは、こういう、「創作料理」と言えば確かにそうだし、「個性が出ている」と言うのも正しいといえば正しいのだけれど、わざわざそうやって呼ぶのもどこか違うような、正確な分量と一緒にレシピ本にのせてしまえば何か別のものになってしまいそうな、そんな料理にぐっとこころを掴まれる。それらは、調理法や組み合わせにおける正しさや、「素材を活かす」というような概念とはまったく別の次元にあるからか、わたしをほっと安心させてくれる。でも、だからと言って味が劣っているかというとそうではなくて、むしろ、特別な日に食べた手の込んだ料理よりも、舌がその味を鮮明に覚えている気さえする。だから、人間の心と身体は面白い。

いなかのばあちゃんたちのごはんには、家のにおいが染み込んでいるんじゃないかといつも思う。悲しい哉、きっとわたしが、材料や調理法をそっくりそのまま真似して作ったところで、あのにおいは出ないだろうと思うのだ。

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「ゆっくりしていきない(ゆっくりしていきなさい)」と言うかめばあちゃんの言葉に甘えて、おなかいっぱいになったあとも、しばらくくつろいでいくことにした。甲子園の中継も終わり、そのまま流れ始めた番組を観る。「断捨離」というタイトルの番組で、物を捨てられない80歳くらいのおばあちゃんが、家族に助けられながら溜め込んだ物たちとおさらばしていくという内容だった。「わたしはこのおばあちゃんの気持ちが分かるような気がするのよね、昔は物も少なかったから、何かあったときのためにと思うと捨てられないのよね。」と、かめばあちゃんが何気なく言った言葉が、妙に心に響いた。

寝転ぶと、黒光りした立派な梁が目に入る。話を聞いていると、どうやら150年から200年くらい前、まだ屋根が茅葺きだった頃のものらしい。家の中でいろりで火を焚いていた頃は、家に虫がほとんど出なかったという話を聞いて、当時の生活を想像してみたりした。

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わたしは、あるものよりないものに目を向けてしまう傾向にあること、そしてそれが、わたしが近い未来を悲観して生きづらくなってしまう要因の一つであることが、最近ようやく自分でわかってきた。

消えてしまったもの、これから消えてしまうだろうものは、数えればきりがない。価値あるものを残すことは意義のあることだけれど、それを無理に残そうとしたり、完全な形で再現したり繋いでいこうとする行為は、ときに執着になる。そして、それが執着になっているとき、純粋な愛やよろこびとは違う、何かあまり気持ち良くはない思いが原動力になっていることが多い。だから、結局自分が苦しくて、やめてしまう。

そんな自分の傾向に気がついて、視点を変えることを意識し始めてから、少し、世界が明るく見えてきた。茅葺きの屋根も、焼畑の文化ももう途絶えてしまったけれど、それを実体験として語ってくれる人が、わたしの目の前に、今、ちゃんといて、その時代を共にしてきた家が、わたしの目の前に、今、ちゃんとある。

記録することに執着しないこと。見たもの、聞いたこと、感じたことはきっと、自分の中で、ちゃんと熟成されていく。それらを、いつか何かの形で表現していける自分の力を、信じてみたい。

 

今回の記事を作成したのは
吉本遥
吉本遥さん

熊本市出身の25歳。東京での大学生活を経て小さな村での暮らしを望むようになり、2021年3月、五木村に移住。民俗学が好きで、古い道具や昔から続く暮らしの営みに触れるとわくわくします。